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雪祭りも始まりましたね

早いもので、時既に2月です。

大通では雪祭りが始まりましたね。

 

ミニ大通も雪ふかふかで、散歩が楽しいです。

 

北海道立近代美術館A室では、平山郁夫展-遙かなるシルクロードと北海道-が、B室では『さとぽろ』とその時代 詩・版画・都市のモダニズム 展が、北海道立三岸好太郎美術館では『好太郎ライジング-若き日の挑戦 』展が開催中です。

 

平山郁夫のシルクロードへの道作品と彼が保護し収集したシルクロード文化遺産の悠久の時、1925年6月に札幌で生まれた詩と創作版画の同人誌『さとぽろ』の若者たちと同時期に画家を目指して東京に旅発つことになる若者三岸。それぞれの時に思いを馳せながら見所満載の両美術館巡りとミニ大通散歩。

 

さぁ!元気に冬を乗り切りましょう!

 

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写真はミニ大通14丁目ル・パティスリーウノズさんのガトーフレーズ

美味しいです!

 

Vol.3 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第3回目です。

かつて、ミニ大通レターズエリア近隣に冬季五輪アスリートたちがおられたというお話しです。

 

2,父とスキーヤーたちの思い出

 

家の向かいに北4条郵便局があって、高橋昴さんという局長がいました。この方は、1928年(昭和3)に日本がはじめて参加した冬季五輪、サンモリッツオリンピックに主将として出場した名選手でした。オリンピックでは、第1回〜3回まではスキーはノルディック競技しかありません。サンモリッツは第2回大会です。

 

髙橋昴さん(左)と父・藤左衛門
髙橋昴さん(左)と父・藤左衛門

 

近所ということもあり、高橋さんは父と深い交友がありました。高橋さんは用具にたいへん凝る人で、体格や筋力の劣る日本人が世界の一流選手と戦うためには、まずどれだけ軽くて高性能なスキーとポールを開発するか、という発想を持っていました。第一線を引いて郵便局勤めになってからもそれは変わらず、よく父と議論を交わしていたものです。

1936年のガルミッシュパルテンキルヒェン・オリンピック(ドイツ)では、高橋さんはコーチ、役員として活躍しました。この年の夏にはベルリンオリンピックが開かれ、両オリンピックはヒトラーの声がかりで行われたナチスのプロパガンダオリンピックとして知られています。この次に開かれる予定だったのが、夏の東京五輪、冬の札幌五輪だったわけです。

 

その頃のことで忘れられない思い出があります。高橋さんはドイツから、当時の日本にはなかった電気掃除機を買って帰りました。それをうらやましがった父はときどき私に、郵便局に行って高橋さんから掃除機を借りてこい、と命令するのです。そんなことが何度かありました。お願いに行くたびに高橋さんは、「仕方がないな。ふつうの人には絶対貸さないんだからね」と、念を押すように言って貸してくれました。

 

また、1932年のレイクプラシッド冬季五輪のノルディック競技に出場した栗谷川平五郎さん(札幌鉄道管理局)も、家が近所でもあり、父と親しい交友がありました。栗谷川さんもまた、独自のスキー理論を持っていました。

ヨーロッパのレースに出場するうちに栗谷川さんは、クロスカントリースキーでは脚と同じように上半身の使い方がいかに重要かを理解していきました。脚と腕の力がひとつになってはじめてヨーロッパの選手と戦えるパワーが出るんだ、と。今では常識ともいえるこの考え方は、当時の日本では全く新しいものでした。

 

栗谷川平五郎さん(前列右から2番目)と父(前列左から1番目)
栗谷川平五郎さん(前列右から2番目)と父(前列左から1番目)

 

グラフィック・デザインでさまざまな仕事をし、北2条西20丁目にあった北海道造形デザイン専門学校を開校した栗谷川健一さんは、平五郎さんの甥にあたります。

 

父は、自身が1923年(大正12)の第1回全日本選手権の距離競技(10キロ)で入賞するほどの選手でした。その上で北大スキー部との交流から始まり後年は高橋さんや栗谷川さんといった一流選手・一流指導者と付き合いながら、世界と戦えるスキーを開発するために技術の研鑽を重ねていました。私たち子どもにはやさしい父でしたが、仕事に対してはつねに高い理想を厳しく追い求めた技術者であったと思います。

(つづく)聞き書き/谷口雅春

 

芳賀孝郎 さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

好太郎ライジング-若き日の挑戦

北海道立三岸好太郎美術館にて

3月27日(日)まで開催

三岸好太郎が17歳の時に描いた〈自画像〉をはじめ、三岸の初期の作品が中心に紹介されています。自画像から伝わるのは画家をめざす青年の決意と力強い気迫。その後まもなく彼は上京し、自らの芸術を求めて、たゆまぬ挑戦が始まりました。

同時開催「もう一つのライジング」

三岸が創立時(1925)に特別会員として関わった「北海道美術協会(道展)」が、若い世代を対象に2008年から行っている企画展〈道展U21〉から、これまでの大賞・準大賞受賞作7点の作品も展示されています。

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第30回オリジナル・スイーツデー 

   「ミギシの散歩道」  

   2月11日(木)・18日(木)  

   *各日10:30~より学芸員による

ギャラリー・ツアー(約30分)  

   <30回記念のスイーツ>

1930年創業の老舗〈モンジェリ〉さん特製マカロンとクッキーの詰め合わせ

           →チラシはこちら(PDF)

 

 

第200回美術館ミニ・リサイタル 

    「五色で描くポピュラー・クラシック」  

   2月13日(土) 14:00~  展示室

出演:〈アンサンブルPALLET〉

菊地由貴(マリンバ) 樋口千夏(ピアノ伊藤香織(ヴァイオリン)  森愛雅(フルート) 高畑友香(クラリネット)             チラシはこちら(PDF)

 

土曜セミナー 

「すすきの生まれ 三岸好太郎の原風景」 

  2月20日(土) 14:00~  会議室

   講師:山 田 航 氏(歌人)     

   チラシはこちら(PDF)

2月の情報です

「好太郎ライジング-若き日の挑戦 

     (所蔵品展第4期)

  1月30日(土)~3月27日(土) 

   詳しくはこちら→「好太郎ライジング」チラシ(PDF)

 

NEW!第199回美術館ミニ・リサイタル 

  「舞台(ステージ)と銀幕(シネマ)の世界から」 

  1月30日(土) 14:00~ 展示室 

出演: 安達彩子(ソプラノ) 

菅原弥生(ソプラノ) 日小田直美(ピアノ) 

  チラシはこちら(PDF  

*展示室を会場とするため、開演中および会場設営・撤収等の時間帯に当該展示室の作品を一部ご観覧いただけない場合があります。(会場設営は13:00頃~予定/座席には限りがあります)

展示室でのイベントについて

 

NEW!第30回オリジナル・スイーツデー 

   「ミギシの散歩道」  

   2月11日(木)・18日(木)  

   *各日10:30~より学芸員による

ギャラリー・ツアー(約30分)  

   <30回記念のスイーツ>

1930年創業の老舗〈モンジェリ〉さん特製マカロンとクッキーの詰め合わせ

           →チラシはこちら(PDF)

 

 

NEW!第200回美術館ミニ・リサイタル 

    「五色で描くポピュラー・クラシック」  

   2月13日(土) 14:00~  展示室

出演:〈アンサンブルPALLET〉

菊地由貴(マリンバ) 樋口千夏(ピアノ伊藤香織(ヴァイオリン)  森愛雅(フルート) 高畑友香(クラリネット)             チラシはこちら(PDF)

 

NEW!土曜セミナー 

「すすきの生まれ 三岸好太郎の原風景」 

  2月20日(土) 14:00~  会議室

   講師:山 田 航 氏(歌人)     

   チラシはこちら(PDF)

   

平成27年度展覧会・イベント予定 

→こちらをごらんください。

所蔵作品の画像をご覧いただけます! 

当館所蔵の三岸好太郎作品(油彩・水彩素描・版画)の画像の閲覧が可能になりました。

   ページ上の〈コレクション〉からどうぞ。

文化庁の「文化遺産データベース」のサイトで検索できます。

*当館ページ内の〈ギャラリー〉では、主要作品の画像と解説をご覧いただけます。 

札幌の子どもたちに大人気の〈おばけのマ~ル〉。 

三岸美術館にも時々やってきます。

当館を舞台に活躍する絵本

『おばけのマ~ルとちいさなびじゅつかん』もおすすめ。

©Rei Nakai/NAKANISHI PUBLISHING CO., LTD. 
©Rei Nakai/NAKANISHI PUBLISHING CO., LTD.

   マ~ルちらし(PDF)   

 

展覧会を楽しもう!

展示解説 解説員といっしょに展示を観覧しませんか?  

毎日、午後1時~3時、1名から随時受付。祝日と、午後のイベントのある日は行いません。 

作るの大好き2階展示室コーナー

*三岸好太郎の作品にちなんだミニ工作が楽しめます。

スタンプをあつめてオリジナルグッズをゲット!(PDF)

当館をご観覧の方には、各展覧会(所蔵品展4回+特別展)ごとにスタンプを押印します。

スタンプ3個以上で、個数に応じた記念品(当館オリジナルグッズや美術展図録など)を進呈。

詳しくはこちら(PDF)  

*平成27年度のスタンプカードの配布は終了しました。  

1月30日土曜日、三岸好太郎美術館
ミニ・リサイタル開催

「舞台と銀幕の世界から」

音楽家をめざす人や若手音楽家にスポットをあてる北海道立三岸好太郎美術館のミニ・リサイタルです。

1月は30日土曜日、午後2時より開催です。

今回は、安達彩子さんと菅原弥生さんのソプラノ歌手のお二人と日小田直美さんのピアノによる演奏です。

テーマは「舞台と銀幕の世界から」。

ミュージカル「マイフェアレディ」や「キャッツ」、「レミゼラブル」などから素敵な舞台と銀幕の世界が繰り広げられます。

入場無料です。199miniri

『さとぽろ』とその時代
詩・版画・都市のモダニズム

平成28年3月21日(月・祝)まで北海道立近代美術館A室にて開催

 

『さとぽろ』とは、1925年6月に札幌で生まれた詩と創作版画の同人誌です。創刊したのは、当時の札幌の地にあって国内外のトレンドに敏感に反応し美術、文学、音楽、演劇など幅広い芸術に自らの創作意欲を駆り立てた、北海道帝国大学(現:北海道大学)の学生と教員たち。その彼らに、東京の地からやってきて共鳴した新進気鋭でフリーの建築家田上義也が加わって、その活動は雑誌出版の枠組みから展覧会、音楽会、舞台といった総合芸術へと展開の幅が広がって行きました。

『さとぽろ』は、創作の誌面発表のみならず実際のイベントを企画告知し開催したという点では、いわば札幌におけるタウンミニコミ誌としても古典といえる雑誌かもしれません。創作し出版しイベント活動も成し遂げた彼らの4年間の活動と、その活動がその後の田上義也の建築にどのような表現となって現れたのかにも焦点をあてたこの展示を見ると、当時の札幌の若者たちのモダン精神溢れる個々の自立した表現力と力を結集させてメディアを作り上げる力強さと快活さに心を打たれ、テレビというマスメディアの存在しない時代の牧歌的な若者の躍動を感じさせられます。もし彼らの時代にインターネットというものがあったなら....。そんな、たらればを創造してみるのも楽しいかもしれません。

 

<関連事業>

学芸員によるギャラリートーク 土曜日14:00~(約30分)

○ことばとアート・・・1月30日、2月27日

○国貞、国芳、英泉にみる江戸女性の人間模様

・・・2月6日、3月5日

○『さとぽろ』と日本のアバンギャルド芸術雑誌

・・・2月13日、20日

○遊び心と器−用いられることを拒否するカップ?

・・・3月12日、19日

 

『さとぽろ』とその時代展 映画上映会 

田上義也設計《坂邸》が舞台となった映画『Love Letter』(監督・脚本:岩井俊二、出演:中山美穂、豊川悦司ほか)を上映いたします。
2/11(木) 13:30~(約117分)当館講堂(230席) 観覧無料

 

「北光トリオ」に捧ぐ-「『さとぽろ』とその時代」展コンサート

『さとぽろ』同人であった建築家・田上義也は、ヴァイオリニストとしても名声があり、ピアニスト・小川隆子、チェリスト・飯田実とともに1924(大正13)年に「北光トリオ」を結成し、道内各地で演奏、好評を博しました。北海道で活躍する3人の音楽家が、「北光トリオ」が得意とした曲目を中心に演奏します。
2月13日(土)  15:00~(約1時間)1階ホールにて

 

 

さとぽろとその時代リーフ表
さとぽろとその時代リーフ表
さとぽろとその時代リーフ裏
さとぽろとその時代リーフ裏

 

詳しくはこちらをご覧ください。

北海道立近代美術館『さとぽろ』とその時代 詩・版画・都市のモダニズム サイト

Vol.1 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

近隣むかしばなしのコーナーでは、今月から二ヶ月にわたって、かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話しを連続掲載させて頂きます。芳賀さんのお話から、かつてのミニ大通周辺と外国に輸出するまでの隆盛を見た札幌のスキー産業の歴史、そして札幌人と冬の楽しみの今昔と今後への思いについてお話しを伺いました。

 

1,原点は桑園

 

生まれ育った頃の情景(1)

 

私は1934年(昭和9)に桑園で生まれました。北5条西19丁目で、家の前には市電の北5条線が走っており、二中ウラという電停のすぐそばでした。男4人、女4人の8人兄弟で、上にふたりの姉。私は長男です。実家は、芳賀スキー製作所という、スキーを作る会社でした。住まいと事務所と工場が、同じ敷地にありました。

二中ウラの二中とは現在の札幌西高等学校のことで現在の札幌龍谷高等学校のところにありました。私は1948年(昭和23)の学制改革で札幌第二中学校から衣替えした時点での西高第一期卒業生です。

芳賀スキー(のちにハガスキー)は、私の父の芳賀藤左衛門が、父の兄の恒太郎とともに東倶知安村(現・京極町)で創業しました。当初は荷車や馬車の製造販売をしていたのですが、大正半ばからスキーの製造を本格的にはじめ、北大スキー部などから高い評価を得ました。昭和のはじめには札幌に移り、工場をこの場所に建てていたのです。

1940年(昭和15)芳賀スキー製作所前にて撮影1芳賀孝郎さん提供

この写真は、1941年(昭和16)の冬に家の前で撮ったもの。雪山でスキーを履いているのが私です。私は桑園国民学校(現・桑園小学校)の一年生でした。写真にあるように、家の前の電車のレールを除雪してできたような雪山で、兄弟や近所の仲間と遊んでいました。スキーはもちろんハガスキーです。今のミニ大通になっている通りは、現在のような真ん中の緑地帯は無く、単に幅の広い防火帯道路で、ここでもスキーを履いて行き来していました。昔は、電車が走っている街の中以外は馬そりと並んでスキーも人々の冬に交通手段だったものです。

1940年(昭和15)芳賀スキー製作所前にて撮影2芳賀孝郎さん提供

こちらのひとりで写っている方では、奥に北5条通りが西に延びています。冬は雪でおおわれていますが、道はもちろん舗装などされていません。私の左後方に左側に向かって向かってカーブする轍がうっすらと見えますがこれは電車のレールです。この電車は北5条線といって札幌駅前方面から、北5条通りを往来し、この北5条西20丁目のカーブで南に進み大通20丁目にあった避病院(伝染病の隔離病院)の前で終点でした。そこで円山公園からの円山線に乗り換えると円山線は南1条から南1条線になって西4丁目交差点の三越前に向かうことができました。西4丁目交差点には駅前通りを札幌駅前とすすき野を経て中島公園を結ぶ停公線が通っていて札幌駅前で北5条線に繋がっていましたから、街の中心部にいくのは、むしろ今よりも便利だったと思います。けれども写真の私の背後には西の円山方面に向かって、大きな建物が見事になにもないですね。

父がスキーの職人ですから、私は物心つく前からスキーが友だちでした。1940年(昭和15)に札幌でオリンピックが開かれることが決まっていましたから、市民のあいだでもスキー熱が盛んだったと思います。父に連れられてよく荒井山に入り、いまの大倉山小学校のあたりから沢筋を滑っていました。あのあたりにオリンピックのボブスレーコースが作られていて、父は関係者とも懇意にしていましたから、ボブスレーに乗せてもらったことがあります。ご存知のように、1940年(昭和15)の札幌オリンピックは戦争のために中止となってしまったのですが。

小学校に入ってからは、学校が終わると家からそのままスキーを履いて、友だちと円山で滑りました。6年生のとき、荒井山で第1回全札幌小学校スキー大会があり、私は大回転で優勝しました。

この写真が撮られたころに太平洋戦争がはじまりました。家の近くに札幌二中(現在の札幌西高校)がありましたから、グランドなどを遊び場にしていました。時節柄だったと思います。グランドで行われていたグライダーの滑空訓練などはいまでも目に浮かびます。生徒たちが両側から引っ張ってグライダーを飛ばすのです。

友だちの兄さんが海軍兵学校に行っていて、休暇に、江田島(広島県)から白い制服で帰ってきたことがありました。あまりの格好良さに衝撃を受けました。儀礼刀にさわらせてもらって感動したことをおぼえています。当時の少年たちは、大人になったら何になる? と問われたら、「兵隊になる」というのが当たり前のこたえ。出征兵士を見送る情景も珍しいものではありませんでした。

戦争が激しくなってくると、工場の若い従業員も出征していきました。戦争でスキーどころじゃないと思われるかもしれませんが、このころ長野県の大手メーカー西沢スキーが陸軍から3万台のスキーの注文を受けたという話がありました。西沢と付き合いのあった芳賀スキーでもその一部を手伝うことになりました。父はしぶしぶ受けたようです。軍隊スキーは、軍靴ではけるように革の締具をつけたフィットフェルト方式で、ストックは和竹製。大きなリングがついていました。

 

1944年(昭和19)の春、洞爺湖の月浦に疎開することになりました。父がそこに別荘を持っていたのです。月浦国民学校に転校しました。ちょうどそのころ、湖越しに見えるところに昭和新山が誕生して、私は、噴煙を上げながら日に日に大きくなっていく山を不思議な気持ちで見ていたものです。戦争が終わったという玉音放送は、児童みんなで国民学校に集まって聞きました。あの時代は、今思うとやはり自由な雰囲気はなく重苦しい感じで、けして、良い時代ではありませんでした。もう二度とあんな時代にはなって欲しくはないですね。(つづく)

聞き書き/谷口雅春

 

かつて1962年(昭和37)まで北4条西19丁目にあった札幌西高等学校を南から北に向かっての空撮(1957年(昭和33)当時)。現在、西本願寺札幌別院と札幌龍谷学園高校のある場所です。校舎敷地北側の北5条通りと西側の20丁目(市場通り)に市電北5条線が走っているのが見えます。右端の中心あたりに現在のミニ大通17丁目の突端もわずかに見えます。札幌市公文書館所蔵写真
かつて1962年(昭和37)まで北4条西19丁目にあった札幌西高等学校を南から北に向かっての空撮(1957年(昭和33)当時)。現在、西本願寺札幌別院と札幌龍谷学園高校のある場所です。校舎敷地北側の北5条通りと西側の20丁目(市場通り)に市電北5条線が走っているのが見えます。右端の中心あたりに現在のミニ大通17丁目の突端もわずかに見えます。札幌市公文書館所蔵写真
札幌市卓上案内1950年(昭和25)北海道都市案内刊行会発行札幌市中央図書館所蔵より赤丸の部分に芳賀スキー製作所が1992年まで所在していました。現在JR北海道バス 北5条線[58]の札幌駅方向へのバス停のあるあたり味の時計台北5条店の東側です。
札幌市卓上案内1950年(昭和25)北海道都市案内刊行会発行札幌市中央図書館所蔵より赤丸の部分に芳賀スキー製作所が1992年まで所在していました。現在JR北海道バス 北5条線[58]の札幌駅方向へのバス停のあるあたり味の時計台北5条店の東側です。

札幌市電北5条線

1927年(昭和2)に北5条西4丁目~北5条東20丁目間で開通し、その後1931年(昭和6)に北5条西19丁目~大通西20丁目間が開通し円山線と直結。1971年(昭和46)まで運行。

札幌市鳥瞰図昭和11年(部分)吉田初三郎作 札幌市公文書館所蔵

 

芳賀孝郎 さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

お正月休みに雪道散歩も楽しいミニ大通

昨年末来の雪が、お正月らしさを引き立てるミニ大通から、

今年もよろしくお願い申し上げます。

皆様、お正月休みいかがお過ごしでしょうか?

ミニ大通では西11丁目のCafe倫敦館さんが9:00から23:30まで、西14丁目の洋菓子店ウノズさんが11:00から17:00までと三が日も休まず営業しています。お正月休みのお散歩のひとときに、是非、どうぞ!(ウノズさんは4日・5日10:00~17:00、6日定休日で7日から10:00から19:30の通常営業)

 

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本年もよろしくお願いいたします。