かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話しを連続掲載の第2回目です。
1937年(昭和12)北5条西19丁目にあった芳賀スキー店舗前での写真(芳賀孝郎さん提供) 当時3才の芳賀さんを抱えておられるのが、芳賀スキー製作所社長であられたお父様の芳賀藤左衛門さんです。
1,原点は桑園
生まれ育った頃の情景(2)
出征していた従業員が帰ってきて工場が復活したのは、1947年(昭和22)。全日本スキー選手権もインカレも1944年で中止になっていて、大きな大会が復活していったのは1948年ころから。父は、戦前なら可能だったヒッコリー材の輸入もままならず、さらには農地改革で不在地主の土地が小作人に開放されたことに伴って、洞爺湖の別荘と土地にまつわる権利の調整で頭を悩ませていました。
日本映画社が芳賀スキー工場をニュース映画用に撮影したた時のステール写真(芳賀孝郎さん提供)
といっても子どもには詳しいことはわかりません。戦後すぐ、私は中学生になりました。1947年(昭和22)に開校した新制の中学、向陵中学校の一期生です。
そのころで思い出されるのは、進駐軍のGI(米兵)たちです。当時は市街地でもろくに除雪されていませんから、裏通りなどで彼らのジープがスタックしている場面に出くわすこともありました。そんなときはソレッとばかりに子どもたちで押してあげます。すると「サンキュー」と、チョコレートやガムがもらえます。
国民学校のころから私に悪いことをいろいろ教えてくれた悪友がいまして、彼から、もっと簡単にチョコレートを手に入れる方法を教わりました。彼は、GIを見かけたら元気よく「Hey!」と呼びかけろ、と言います。そして米兵が振り返ったらすかさず「Give me chocolate!」。これでチョコレートが確実にもらえるのです。
私がこれをマスターしたころ、彼はこう言いました。「まだチョコレートなんかもらってるのか、子どもだなぁ」。「俺はいまもっぱらタバコをもらっているんだぜ」と威張ります。
「Hey, Give me cigarette!」 すると、キャメルやラッキーストライクがもらえるというのです。彼はそのタバコを大人たちに売ってちょっとした小遣い稼ぎをしていたようです。
なにしろ自動車なんてまだまだ数が少なくて、冬の物流では馬橇が活躍していました。冬のあいだ馬たちがそこらじゅうに落とした糞が、雪が解けると春の風で盛大に巻き上がります。いわゆる馬糞風です。
桑園には陸軍の被服敞がありました。いまの市立病院のあたりです。だから一帯には繊維関係の会社が集まっていました。日本橋(東京)の馬喰町の問屋の出先などです。北5条通にはいまでも少しその面影がありますね。北5条西11丁目にあった小林商店という会社は私の友人の家でしたが、そこも含む繊維卸有力企業の立派な社屋は、進駐軍に接収されていました。今の知事公館も当時は三井クラブ※1でしたが、やはり米軍に接収されていました。
(つづく)聞き書き/谷口雅春
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。
※1三井クラブ
三井クラブ(旧館)1930年撮影札幌市公文書館蔵 元は札幌農学第2代校長をつとめた森源三氏が建てた洋館で、米軍が接収する前は、森氏から建物と敷地を購入した三井合名会社の所有でした。返還後札幌市の所有を経て1953年(昭和28)に北海道に移管されました。この写真の洋館は森氏の時代に建てられた旧館です。三井合名会社は1935年(昭和10)に現在も知事公館として利用されている新館を建設。旧館は老朽化のため北海道庁移管時に取り壊されました。