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Vol.8 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。

連続掲載の第8回目は、千葉・東京でのお仕事を終えられ札幌に戻られて、大好きな雪山スキーを再開された芳賀さんのお話です。
今回は、最終回のVol.9と同時に公開させていただきます。

 

再び、札幌に戻り深雪スキーを楽しむ

 

2011(平成23)年秋、77才で全ての職を終え、私と妻は20年間、留守にしていた札幌市中央区宮の森の自宅に戻りました。

千葉県幕張ベイタウンの便利なところから、札幌市の中央区とはいえ山の中腹にある家に戻ろうとする私に、友人たちは「何故、いまさらそんな不便な所へ?」と。これは、東京の人からも札幌の人からも言われました。

確かに、ここは地下鉄の最寄り駅からも遠く、街に出るには不便な所、でも周りに豊かな自然に恵まれ、庭のバードテーブルにはきれいな野鳥や可愛らしいエゾリスたちもやって来る場所。この自然の眺めの中での寛ぎは、かけがえのないものです。

そして、山スキーの再開。実は、これが私の札幌に戻る大きな目的のひとつでした。季節は冬となり、喜び勇んで古い山仲間とともに雪山へ!しかし、実際に行ってみると、あいにく私の長く愛用したスキー道具は古く劣化していたため、全て新型への切り換えが必要であることが判明。さらにこの新型に向けてのスキー技術の修得も余儀なくされることに。私のスキー技術は半世紀以上古いクラシックスキーテクニックで、新型スキーは私のスキー技術を理解してはくれないのでした。札幌に戻って深雪スキーを楽しむにはもはや遅すぎたか!とも思われましたが、私の年齢にふさわしいハニカムコア軽量のフランス製スキーを手に入れたことと、仲間の指導のおかげで操作にも慣れ、今はニセコや大雪での山スキーを楽しんでおります。もちろん年齢をわきまえ仲間に迷惑をかけないことに努めて、これからも深雪を楽しんで行きたいと思います。

ニセコアンヌプリの深雪を滑走する芳賀さん(右)2015年1月撮影
ニセコアンヌプリの深雪を滑走する芳賀さん(右)2015年1月撮影

(最終回 Vol.9につづく)(最終回 Vol.9につづく)

芳賀孝郎 さん

芳賀孝夫さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

 

Vol.7 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。

連続掲載の第7回目は、芳賀さんの学生時代、山岳部に所属していた頃にヒマラヤに登られたお話しです。

学習院大学山岳部時代とヒマラヤ登山遠征

 

大学に入学して山岳部に所属したのは、当時、学習院大学にスキー部が無かったためでした。けれども、山岳部に端を発した山の男たちとの出会いは私に取ってかけがえのないものとなりました。
 

学習院大学山岳部時代 後列中央が芳賀さん

学習院大学山岳部時代後列中央が芳賀さん

 

1954(昭和29)年12月30日、学習院大学山岳部は、北アルプス鹿島槍ヶ岳天狗尾根で仲間4人が消息を絶つ遭難事故に見舞われました。後発隊で難を逃れた我々は翌日から舟橋明憲先輩の指揮のもと捜索活動を開始しますが困難を極め、京都大学や同志社大学などからの救援もむなしく8ヶ月にわたる捜索が終了ました。我々は仲間を見つけられぬ悲しみの中、伝統ある山岳部そのものの存続も危ぶまれる事態に直面しました。けれども後輩たちの捜索に駆けつけてくれたOB加藤泰安先輩による鬼の指導のおかげで、我々は山への姿勢を改めて学び、全力を傾注したことで学習院大学山岳部は復活を果たしました。

私自身はこの時の加藤先輩とのご縁がきっかけとなり、先輩自身が副隊長となる京都大学山岳部ヒマラヤ山脈カラコルム・チョゴリザ登頂隊に推薦され23歳で参加することになりました。戦前の学習院高等科生時代に山岳部所属後、京都大学の学士山岳会をめざし進学し、幾度も大陸に遠征し、戦後は昭和28年の第1次マナスル登山隊参加した加藤先輩は、遭難事故で落ち込んでいる当時の我々に明るい希望の光を当てるために10人の隊員の内の一人を学習院大山岳部から選ぶ事を計画し、私を推薦してくれたのでした。

この遠征隊は、1958(昭和33)年5月8日に神戸港を出発し、8月4日に、隊員2名の18時間をかけた標高差1000mのアタックにより、大学登山隊としては世界初の7000m峰超えであるチョゴリザ峰7,665mの登頂に成功したのでした。その11日後、私自身もチョゴリザ登頂を果たした平井隊員ともにポーター1名を伴い、ムスタグタワー東面のビアンジェ氷河への偵察に入り、4日後に5400mのキャンプからアルパイン方式で7170mの無名峰への登頂を試みました。装備不足で登頂こそ断念したものの頂上直下50mの地点まで登り、雄大なる山また山の景色に深く感銘を受け、その岩峯の下にケルンを積み、私のヒマラヤ遠征隊参加へのきっかけとなった鹿島槍ヶ岳遭難の学友4名の写真を埋めて下山しました。

 

ヒマラヤの無名峰7170m直下にて鹿島槍ヶ岳遭難の山岳部員たちを悼む 1958年8月
ヒマラヤの無名峰7170m直下にて鹿島槍ヶ岳遭難の山岳部員たちを悼む 1958年8月

 

この遠征参加は私の人生に自信と勇気と希望をもたらした事は言うまでもありません。キャラバン中は京大教授でフランス文学や評論の研究者である博識高い桑原武夫隊長による文化講演会が毎日のようにあり。知識や教養が深まった事も間違いありません。桑原隊長は、現地での折衝に隊員各自がたとえ英語がどんなに下手であっても、恥を恐れず相手が理解するまで頑張って必ず意思を伝えるようにと厳命し、それが国際人としての生き方であると教えました。そのおかげで私は人前で英語を話す心臓だけは強くなりました。

実は、オールジャパンインベストリーサービス社への入社の際には、経営指導者であるアメリカ人のジャック・ブーン会長による英語での面接がありました。このときもチョゴリザ登山遠征での桑原隊長の教えを思い出し、英語で自分の考えを最後まで頑張って伝え、役員候補としての営業部長の職を得ることができたのでした。

2005(平成17)年9月、鹿島槍ヶ岳遭難50回忌の追悼記が現地山麓で行われました。遭難者4名へその後の山岳部の活動を報告し冥福を祈りました。さらに私が加藤泰安先輩にご指導頂く事になったのも、亡き4名のお陰であることにお礼を伝えました。

なんといっても加藤泰安先輩にはお世話になりました。加藤先輩が副隊長を務めた第1次マナスル登山隊の隊長で後の日本山岳会会長となる三田幸夫氏の娘・淳子との結婚をとりもってくれたのも加藤先輩なのですから、本当に感謝に堪えません。厳しくもユーモア溢れる人生観を生きた登山家、加藤泰安先輩は井上靖の山岳小説「あした来る人」のモデルでもある人でした。

 

ヒマラヤ登山べーキャンプで寛ぐ加藤泰安先輩 1958年8月
ヒマラヤ登山べーキャンプで寛ぐ加藤泰安先輩 1958年8月

 

(つづく)原稿まとめ平山淳也(mini大通レターズ)

芳賀孝郎 さん

芳賀孝夫さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

今週日曜日3/20は臨時休業とさせていただきます。

14丁目風香です。

 
春の陽気が感じられる1日でしたね!
このまま、暖かい日が続けば良いですが。
さて、今日は待ちに待った栗山町小林酒造さんから専務の精志さんをお迎えしての「風香 日本酒の会」開催でした。
今回も、専務のお話が楽しく興味深いもので、大変に盛り上がらせていただきました。

 
知らずにお立ち寄りの皆様には本日は貸し切りにつき、大変に申し訳ございませんでした。

 
また、今週日曜日3/20は臨時休業とさせていただきます。
なので、20(日)、21祝日は連休となります。

 

今週、木・金・土は、営業致しております。

 

どうぞ、よろしくお願い致します。

 
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Vol.6 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第6回目です。

今回から最終9回までは、ハガスキー後の芳賀さんと学生時代の山岳部や日本山岳会でのご活躍のお話しです。
 

ハガスキー後の私〜山との出会い再び

 

ハガスキーの倒産後、約1年にわたる残務整理ののち、1992(平成3)年12月に私は札幌宮の森の自宅を離れ千葉県に移り住みました。ハガスキー時代にスキーの取引があった千葉県のドラッグストアチェーンを経営者する斎藤茂昭氏から、オールジャパンインベストリーサービス社へのご紹介をいただき入社するためでした。斎藤茂昭氏は日本流通業界のパイオニアの一人でした。

当時57才の私には地元北海道のスポーツ関連会社や大型スキー場などからのお誘いもありましたが、ハガスキーに対する積年の思いを断つためにも東京で働きたいと思ったのでした。この会社は、棚卸し代行業のアメリカ・マスカリーノ社との合弁会社でした。1990年代から流通業界の年中無休化、24時間営業化の進展といった潮流に乗り、順調な発展を遂げました。1996(平成8)年には社名をエイジスと変更し、ジャスダック市場への上場をはたしました。私は取締役営業部長としてその達成を喜ぶことができました。その後、副社長となり退職後は子会社の人材派遣業エイジススタッフサービスの社長となり、さらにボランティアで知的障害者施設・社会福祉法人斎信会の事務局長を務め2011(平成23)年、77歳で全ての勤務を終えました。

ハガスキーでは倒産の憂き目を見たものの、その後の仕事を順調に過ごせた事は、大変に幸運な事だったと思います。

そして、エイジス時代に関東へ居を移したことで学生時代からの山仲間との登山を再開できたことも幸運なことでした。

毎年5月の連休に残雪の越後と会津の山々を登ることが10年間続き、仲間は出身大学の学習院から京大、慶応、早稲田、北大と輪が拡がり、愉快なグループとなりました。米系企業であるエイジスでは毎年米国研修があり、その機会にあわせてヒマラヤやカナダの山にも出かけました。

1995年 新潟県・越後駒ヶ岳登山にて

1995年 新潟県・越後駒ヶ岳登山にて

 

日本山岳会の集まりにも積極的に参加し、2001(平成13)年から2005(平成18)年までは、同会100周年記念事業時の副会長を務め、記念募金委員長の責任も果たさせていただくこともできました。

この記念募金では当時の読売新聞社長であった内山斉氏から多大なるご支援をいただきました。実は彼は桑園小学校から札幌西高校までの友人で、彼の生家は桑園競馬場の近くにあった釣り堀屋さんでした。けれども高校卒業後の交流は全くなく、私はこの時まで、読売新聞の社長が彼であることをまったく知らず。むしろ彼の方が、私の事を覚えていてくれたことに驚きました。

札幌の同じ桑園で育った友人と40年ぶりに出会うのが、東京大手町の大新聞社のビルの社長室で、しかも要件は日本山岳会100周年記念事業への記念募金へのお願いとは、全く持って人生は、何があるのかわかりません。

日本山岳会100周年記念時にカナダ山岳会会長を招いて(右端が芳賀夫妻)
日本山岳会100周年記念時にカナダ山岳会会長とともに(右端が芳賀さんご夫妻です)

 
(つづく)本稿より平山淳也(mini大通レターズ)が原稿をまとめさせていただきました。

 

芳賀孝郎 さん

芳賀孝夫さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。2011年より自宅内に「小さな芳賀スキー展示室」を開設。

3月も中盤になりますね!春めいてきました!

 

少ない少ないと言っていた雪も、3月に入ってドカッと来て、やはり降ったか!というところでしたが、その後は降雪も落ち着きましたね。

今週は晴れマークの日が続くようで、これから先は三寒四温で、いよいよ春めいて行きますね!楽しみです。

北海道道立近代美術館のA室『さとぽろ』とその時代展−詩・版画・都市のモダニズムB室『平山郁夫展』−遙かなるシルクロードと北海道−は、共に来週3月21日(月・祝日)までの開催となっておりますので、まだ、ご覧になっておられない方は是非、お見逃し無く!
北海道道立三岸好太郎美術館の『好太郎ライジング−若き日の挑戦』は3月21日(日)までの開催となっておりますので、併せてお楽しみください。

 

さて、1月から『近隣むかしばなし』のコーナーで掲載してまいりました、かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し『私の山とスキーと人と』は、今週から来週にかけてVoL6〜9(最終回)を、随時公開いたします。こちらもどうぞよろしくお願いします。

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Cafe Raw Lifeにて大好評の
古谷シェフのイタリアン教室
今月は3/17木曜日
19:00~20:30開催です。

 

パスタマシーンを使わずに簡単に道産小麦生パスタを作れるレッスン、

今回は、モチモチ食感のロング生パスタ『ピーチ』

ソースは『菜の花とサルシッチャソース』

そして、前菜は『うどのベリーソースマリネ』に挑戦です!

是非、乾麺とは一味違ったワンランク上の生パスタ作りを体験してみませんか?

参加費 3000円(1ドリンク付き)当日お支払いください

定 員 10名様

持ち物 ハンドタオル・エプロン・筆記用具

<お申し込み先>

『アネッロ・ズ』フルヤもしくはRaw Life店舗まで

メール anello.s76@gmail.com TEL090-5551-5743

2/31(日)以降のキャンセルはキャンセル料が発生しますのでご了承ください。

講師:古谷たかし

手打ちパスタ教室『Anello's』代表・シェフ

札幌市内のカフェ・料理教室を借りて道産小麦を使った生パスタ教室やイタリア家庭料理教室を開催しています。

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3月12日(土)
三岸好太郎美術館ミニリサイタル
〜古(いにしえ)の響き〜
中世ヨーロッパの音楽と古謡

 

音楽家をめざす方や若手演奏家による北海道立三岸好太郎美術館のミニ・リサイタル。 第201回目の今回は古楽アンサンブル・ウィリディスさんによる 歌とハープ、プサルテリー、シトール、笛の演奏です。

 

プサルテリー、シトールとはどんな楽器でしょうか?

所蔵品展「好太郎ライジング-若き日の挑戦」とともにお楽しみください。
 

(第201回) 3月12日(土) 午後2時~ 約1時間

 

・古楽アンサンブル・ウィリディス・

 

歌・ハープ: 宇治美穂子 Uji Mihoko

歌・プサルテリー: 大友弥生 Otomo Yayoi

歌・笛・シトール: 中村会子 Nakamura Aiko

 

<プログラム>

 

~12 世紀~

ドイツ 聖女ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

フランス 吟遊詩人 宮廷騎士恋愛歌

~13 世紀~

イタリア 聖フランシスコのラウダ

~14 世紀~

スペイン モンセラート修道院に伝わる巡礼歌

~16 世紀~

イギリス スカボローフェア

 

●会 場 :展示室内

●入場料 :所蔵品展観覧料でお聴きになれます。

※65 歳以上、高校生以下は無料です。

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Vol.5 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く

かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第5回目です。

今回は、芳賀スキー誕生のお話しです。

 

芳賀スキーの成長とその後

 

芳賀スキーは1926(大正15)年には札幌に拠点を移しました。当初は札幌郡藻岩村字円山(現在の円山)に工場と事務所を構え、1933(昭和8)年には父が兄の恒太郎から独立して、桑園に店と工場を構えました。私が生まれ育った北5条西19丁目です。

先に述べたように、私は、1947(昭和22)年に開校した新制の中学、向陵中学校の一期生です。私の青春と仕事人生は、戦後の復興と高度成長、そしてドルショック、オイルショック、大型量販店などが起こした流通革命へという、日本経済の大きな流れとともにありました。

 

1949年、全日本スキー選手権大会が国民体育大会冬季大会を兼ねて札幌で開催されました。三笠宮殿下と高松宮殿下がご臨席されました。大会期間中、両殿下は北海道大学の大野精七先生のご案内で芳賀スキーの工場を訪問されました。父は、戦後第一号のヒッコリーの合板スキーを献上しました。輸入ヒッコリー材は、当時たいへん貴重になっていました。宮様は父に、「今まで以上にスキー界で活躍してほしい」とお言葉をくださいました。

01.1949年第27回全日本スキー大会時の高松宮・三笠宮両陛下ハガスキー工場ご見学

宮様にも励まされ仕事に精進した父ですが、やがて体調を崩してしまい、東京の病院にまで行きました。しかし父は、そんな体であるにもかかわらずスキー販売の拠点を東京に置こうと考えていました。その準備のための上京でもあったのです。そして神田小川町に店舗を購入。さらに茅ヶ崎(神奈川県)にあった旧海軍のボート工場を購入する準備までしました。

02東京神田にあったハガスキー営業所(左)と茅ヶ崎にあった工場(右)

父は北大病院で胃の半分の摘出手術を受け、やがて幸運にも全快することができました。私が東京の学習院大学を卒業するころに合わせて、父は茅ヶ崎の工場建設を進めました。1961(昭和36)年に工場は竣工。東京、中部、さらには関西への販売も強化していきます。工場ではバルカナイズファイバーという素材を使ったグラススキーを開発して、これは科学技術庁長官賞を受賞することができました。

さらにほどなくして、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、スイスなどへの輸出も伸びていき、一社ではさばききれないほどの注文を抱えることになりました。輸出については、父は1964年のインスブルックオリンピック(オーストリア・チロル州)を、商談をかねて視察していたのです。

 

父は他社の同志たちと、さらなる生産規模の拡大と高度な技術開発部門を立ち上げるために、札幌スキー協同組合の共同事業として、羊蹄山麓の真狩村に新工場を建てました。いまの道の駅真狩フラワーセンターのあたりに敷地5千坪、建物800坪ほどの工場を設け、年間10万台の生産目標を掲げます。これによって、残念ながら茅ヶ崎工場は閉鎖して手放しました。

03.真狩工場での一体型スキー製造

父が考えたのはこういうことです。アルペンの本場オーストリアなどでは国をあげて、スキーを裾野の広い産業として、そして人々の心に灯る文化として育んでいる。彼の地ではまず風土に根ざしたスキー技術の開発や研究を担う国立のスキー学校があり、すぐれたスキーヤーや指導者たちを育てます。そしてそのまわりに、スキーをはじめとしたすぐれた用具のメーカーがあつまり、さらに一般のスキーヤーを対象にした観光産業などが成り立っていく。交通や飲食、ファッションなどの産業も、その土地ならではのスキーを軸にして活発な事業を展開していくでしょう。

父は、自らが育った羊蹄山麓の風土にしっかりと根ざした力強いスキー文化とスキー産業を、ヨーロッパのように大きな裾野から成長させていきたかったのです。

 

しかしスキーに一生を費やした父は、札幌オリンピック(1972年)を見ることなく1970年に72歳で逝きました。跡継ぎとして私は36歳で社長となります。

 

札幌オリンピックをはさんで日本の経済は、ドルショックによる円高とオイルショックによるインフレで大きな打撃をこうむります。円高による輸入材料の高騰とインフレによる賃金高騰で日本の輸出スキーは完全に競争力を失い、輸入スキーが急激に勢いを増していきました。もはや父の時代とはすべてがちがいます。

 

私は北海道工業試験場や北海道大学の協力・支援を受けて、アルミやチタン、ケブラー繊維などを駆使した高性能スキーを作り上げました。輸入スキーに優る弾性や剛性などをもったスキーでしたが、ヨーロッパの選手がオリンピックで勝ったスキーにあこがれる日本人のブランド志向をつかむことはできませんでした。

通年での売り上げを確保するためにOEM(他社ブランド製品の製造)でゴルフクラブも作りました。

 

また、札幌オリンピックののち、手軽な市民スポーツとして「歩くスキー」の普及がはじまり、私も仲間たちと啓蒙、PR活動に力を入れました。やがて大きな大会に北海道知事や札幌市長も参加するほどになり、歩くスキーはマーケットとしても一定の規模を持つようになります。

しかしこれもまた、市場が育っていくにつれて本格的な用具志向が高まり、老若男女が無理なくゆっくり冬の森や平原を楽しむことを目的とする歩くスキーは、ヨーロッパ製品が主導する、スピードを競うクロスカントリースキーへの流れに変わってしまいました。

 

02.1981年(昭和56)札幌国際スキーマラソン大会

 

 

組合員企業6社で立ち上げた真狩村の札幌スキー協同組合真狩工場は、5社が倒産してハガスキー1社の経営になってしまいました。従業員の配置転換や削減が不可欠となりましたが、他業種労組の支援も受けた労働組合との交渉は困難を極め、地方労働委員会の調停をあおぎました。

このころスポーツ用品の販売業界にも大きな変革が起きていました。大手全国チェーンの販売網が広がり、中小のスポーツ店をつぎつぎに倒産に追い込んでいたのです。売掛金の焦げ付きは膨大な額になりました。

05輸入スキーのバーゲンセール

1991年2月、ハガスキーは倒産を選びました。74年の歴史に幕を下ろしてしまったのですが、総括していえば輸入スキーとの競争に敗れ、労働組合交渉といった問題の発生で、早い決断を下すことができました。

私が生まれ育った場所である桑園にありつづけた社屋は、残念ながら1993(平成5)年に取り壊されました。

 

(つづく)聞き書き/谷口雅春

芳賀孝郎 さん

1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

好太郎ライジング-若き日の挑戦

北海道立三岸好太郎美術館にて

3月27日(日)まで開催

三岸好太郎が17歳の時に描いた〈自画像〉をはじめ、三岸の初期の作品が中心に紹介されています。自画像から伝わるのは画家をめざす青年の決意と力強い気迫。その後まもなく彼は上京し、自らの芸術を求めて、たゆまぬ挑戦が始まりました。

同時開催「もう一つのライジング」

三岸が創立時(1925)に特別会員として関わった「北海道美術協会(道展)」が、若い世代を対象に2008年から行っている企画展〈道展U21〉から、これまでの大賞・準大賞受賞作7点の作品も展示されています。

 

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