Vol.6 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第6回目です。
今回から最終9回までは、ハガスキー後の芳賀さんと学生時代の山岳部や日本山岳会でのご活躍のお話しです。
ハガスキー後の私〜山との出会い再び
ハガスキーの倒産後、約1年にわたる残務整理ののち、1992(平成3)年12月に私は札幌宮の森の自宅を離れ千葉県に移り住みました。ハガスキー時代にスキーの取引があった千葉県のドラッグストアチェーンを経営者する斎藤茂昭氏から、オールジャパンインベストリーサービス社へのご紹介をいただき入社するためでした。斎藤茂昭氏は日本流通業界のパイオニアの一人でした。
当時57才の私には地元北海道のスポーツ関連会社や大型スキー場などからのお誘いもありましたが、ハガスキーに対する積年の思いを断つためにも東京で働きたいと思ったのでした。この会社は、棚卸し代行業のアメリカ・マスカリーノ社との合弁会社でした。1990年代から流通業界の年中無休化、24時間営業化の進展といった潮流に乗り、順調な発展を遂げました。1996(平成8)年には社名をエイジスと変更し、ジャスダック市場への上場をはたしました。私は取締役営業部長としてその達成を喜ぶことができました。その後、副社長となり退職後は子会社の人材派遣業エイジススタッフサービスの社長となり、さらにボランティアで知的障害者施設・社会福祉法人斎信会の事務局長を務め2011(平成23)年、77歳で全ての勤務を終えました。
ハガスキーでは倒産の憂き目を見たものの、その後の仕事を順調に過ごせた事は、大変に幸運な事だったと思います。
そして、エイジス時代に関東へ居を移したことで学生時代からの山仲間との登山を再開できたことも幸運なことでした。
毎年5月の連休に残雪の越後と会津の山々を登ることが10年間続き、仲間は出身大学の学習院から京大、慶応、早稲田、北大と輪が拡がり、愉快なグループとなりました。米系企業であるエイジスでは毎年米国研修があり、その機会にあわせてヒマラヤやカナダの山にも出かけました。
日本山岳会の集まりにも積極的に参加し、2001(平成13)年から2005(平成18)年までは、同会100周年記念事業時の副会長を務め、記念募金委員長の責任も果たさせていただくこともできました。
この記念募金では当時の読売新聞社長であった内山斉氏から多大なるご支援をいただきました。実は彼は桑園小学校から札幌西高校までの友人で、彼の生家は桑園競馬場の近くにあった釣り堀屋さんでした。けれども高校卒業後の交流は全くなく、私はこの時まで、読売新聞の社長が彼であることをまったく知らず。むしろ彼の方が、私の事を覚えていてくれたことに驚きました。
札幌の同じ桑園で育った友人と40年ぶりに出会うのが、東京大手町の大新聞社のビルの社長室で、しかも要件は日本山岳会100周年記念事業への記念募金へのお願いとは、全く持って人生は、何があるのかわかりません。
(つづく)本稿より平山淳也(mini大通レターズ)が原稿をまとめさせていただきました。
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。2011年より自宅内に「小さな芳賀スキー展示室」を開設。