Vol.4 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第4回目です。
今回は、芳賀スキー誕生のお話しです。
芳賀スキーの誕生
芳賀スキー(のちにハガスキー)についてお話しましょう。
芳賀スキーは、私の父芳賀藤左衛門とその兄恒太郎が、大正半ばに東倶知安村(現・京極町)で創業しました。父たちの父、私の祖父芳賀常吉は福島県飯坂温泉で温泉旅館を営んでいたのですが、火災を起こし、周りに大きな災害をもたらしたことで旅館業を終えざるを得なくなりました。そこで、1916(大正5)年、新天地を求めて一家で東倶知安村(現在の京極町)に入植し、開墾のかたわら、父たちは馬車や馬橇の製造をはじめ、職人としての腕を磨いていきました。
このころ東倶知安小学校に、陸軍を除隊になった関寿という先生が赴任します。アルパイン式金具スキーと一本杖をたずさえていました。芳賀兄弟は関先生からこのスキーを見せてもらいました。実は兄弟は北海道に渡る前、米沢(山形県)の五色温泉でふたりのオーストリア人のスキー滑走を見て、たいへん興味を引かれていました。
そのオーストリア人とは、ドイツのシーメンス社の駐在員として来日したエゴン・フォン・クラッツァーと、上智大学のドイツ語講師レオポルド・ウインクラー。この少し前、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、日本陸軍研究のために来日して、新潟県高田(現・上越市)の第13師団や旭川の第7師団などでスキー術を披露していました。1911年から1912年(明治44〜45年)のこと。これが日本における本格的なスキー史のはじまりとされています。クラッツァーとウインクラー、そしてレルヒはともに、アルペンスキーの元祖とされるマチアス・スダイルスキーの高弟でした。つまり父たちは、レルヒが日本でスキーを教えてまもなく、スキーの魅力にいちはやく気づき、そのとりこになっていったのです。
東倶知安小学校の関先生のスキーを見て一気にスキー熱に火がついた父たちはさっそく、高田で日本最初のスキーメーカーとして開業した山善スキー製作所へ、金具付きスキー一式を注文しました。スキーが届くやいなや、それを見本に、木工の技術を活かして自分たちでもスキーを作りはじめます。試作とテスト滑走を繰り返すうちにしだいに満足いくものができるようになり、彼らの滑りを見た村人たちからも注文を受けるようになりました。
大正後半になると、札幌などでは2本杖のスキーが広がりはじめました。1921(大正10)年1月、芳賀兄弟は尻別川の支流をつめて自作のスキーと単杖(1本杖)で無意根山(1464m)の頂上をめざします。長尾山の鞍部にたどりつくと、複数のシュプールと複杖(2本杖)の跡を見つけました。視界が悪くてそのスキーヤーたちに会うことはできなかったのですが、兄弟ははじめて見た複杖の跡に感激しました。複杖で登ってるスキーヤーをはじめて見たぞ! と。
それからふたりは、スキーの改良とワックスの研究、そして父は特にスキーの練習に明け暮れました。
1923(大正12)年。第1回全日本スキー選手権が小樽で開かれました。当時は札幌よりも商都小樽の方がずっと活気にあふれた大都会でした。この年は、フランスのシャモニーで第一回の冬季五輪が開かれる前年。大会は2日間の日程で、北海道、樺太、東北、信越、関東、関西、6地域対抗で行われました。種目は距離が1キロ、4キロ、10キロ、8キロリレー。そしてジャンプ、テレマークスラローム、クリスチャニアスラロームの7種目。当時のスキー競技の中心は、アルペンではなくノルディックでした。
この大会に父芳賀藤左衛門も、猛練習をこなして出場。10キロで5位に入賞しています。北海道予選では、北海道大学や小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)のエリート選手に伍して堂々の3位でした。履いていたのはもちろん自作のスキー。その性能の良さが話題となり、やがて北大スキー部からも製作を頼まれることになります。これが本格的な芳賀スキーの誕生です。
北大の学生たちと仲良くなると、彼らは父に言いました。2年前に無意根山に登ったとき、単杖で登った人の跡を見たが、あれは誰だったろう? 父は、それは「私と兄だ」と答えました。北大生たちも、自分たちのほかに無意根に入っていたスキーヤーを気にしていたのです。
ほどなくして芳賀スキーは、北大スキー部の指定メーカーになりました。
(つづく)聞き書き/谷口雅春
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。