Vol.3 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第3回目です。
かつて、ミニ大通レターズエリア近隣に冬季五輪アスリートたちがおられたというお話しです。
2,父とスキーヤーたちの思い出
家の向かいに北4条郵便局があって、高橋昴さんという局長がいました。この方は、1928年(昭和3)に日本がはじめて参加した冬季五輪、サンモリッツオリンピックに主将として出場した名選手でした。オリンピックでは、第1回〜3回まではスキーはノルディック競技しかありません。サンモリッツは第2回大会です。
近所ということもあり、高橋さんは父と深い交友がありました。高橋さんは用具にたいへん凝る人で、体格や筋力の劣る日本人が世界の一流選手と戦うためには、まずどれだけ軽くて高性能なスキーとポールを開発するか、という発想を持っていました。第一線を引いて郵便局勤めになってからもそれは変わらず、よく父と議論を交わしていたものです。
1936年のガルミッシュパルテンキルヒェン・オリンピック(ドイツ)では、高橋さんはコーチ、役員として活躍しました。この年の夏にはベルリンオリンピックが開かれ、両オリンピックはヒトラーの声がかりで行われたナチスのプロパガンダオリンピックとして知られています。この次に開かれる予定だったのが、夏の東京五輪、冬の札幌五輪だったわけです。
その頃のことで忘れられない思い出があります。高橋さんはドイツから、当時の日本にはなかった電気掃除機を買って帰りました。それをうらやましがった父はときどき私に、郵便局に行って高橋さんから掃除機を借りてこい、と命令するのです。そんなことが何度かありました。お願いに行くたびに高橋さんは、「仕方がないな。ふつうの人には絶対貸さないんだからね」と、念を押すように言って貸してくれました。
また、1932年のレイクプラシッド冬季五輪のノルディック競技に出場した栗谷川平五郎さん(札幌鉄道管理局)も、家が近所でもあり、父と親しい交友がありました。栗谷川さんもまた、独自のスキー理論を持っていました。
ヨーロッパのレースに出場するうちに栗谷川さんは、クロスカントリースキーでは脚と同じように上半身の使い方がいかに重要かを理解していきました。脚と腕の力がひとつになってはじめてヨーロッパの選手と戦えるパワーが出るんだ、と。今では常識ともいえるこの考え方は、当時の日本では全く新しいものでした。
グラフィック・デザインでさまざまな仕事をし、北2条西20丁目にあった北海道造形デザイン専門学校を開校した栗谷川健一さんは、平五郎さんの甥にあたります。
父は、自身が1923年(大正12)の第1回全日本選手権の距離競技(10キロ)で入賞するほどの選手でした。その上で北大スキー部との交流から始まり後年は高橋さんや栗谷川さんといった一流選手・一流指導者と付き合いながら、世界と戦えるスキーを開発するために技術の研鑽を重ねていました。私たち子どもにはやさしい父でしたが、仕事に対してはつねに高い理想を厳しく追い求めた技術者であったと思います。
(つづく)聞き書き/谷口雅春
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。