Vol.1 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
近隣むかしばなしのコーナーでは、今月から二ヶ月にわたって、かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話しを連続掲載させて頂きます。芳賀さんのお話から、かつてのミニ大通周辺と外国に輸出するまでの隆盛を見た札幌のスキー産業の歴史、そして札幌人と冬の楽しみの今昔と今後への思いについてお話しを伺いました。
1,原点は桑園
生まれ育った頃の情景(1)
私は1934年(昭和9)に桑園で生まれました。北5条西19丁目で、家の前には市電の北5条線が走っており、二中ウラという電停のすぐそばでした。男4人、女4人の8人兄弟で、上にふたりの姉。私は長男です。実家は、芳賀スキー製作所という、スキーを作る会社でした。住まいと事務所と工場が、同じ敷地にありました。
二中ウラの二中とは現在の札幌西高等学校のことで現在の札幌龍谷高等学校のところにありました。私は1948年(昭和23)の学制改革で札幌第二中学校から衣替えした時点での西高第一期卒業生です。
芳賀スキー(のちにハガスキー)は、私の父の芳賀藤左衛門が、父の兄の恒太郎とともに東倶知安村(現・京極町)で創業しました。当初は荷車や馬車の製造販売をしていたのですが、大正半ばからスキーの製造を本格的にはじめ、北大スキー部などから高い評価を得ました。昭和のはじめには札幌に移り、工場をこの場所に建てていたのです。
この写真は、1941年(昭和16)の冬に家の前で撮ったもの。雪山でスキーを履いているのが私です。私は桑園国民学校(現・桑園小学校)の一年生でした。写真にあるように、家の前の電車のレールを除雪してできたような雪山で、兄弟や近所の仲間と遊んでいました。スキーはもちろんハガスキーです。今のミニ大通になっている通りは、現在のような真ん中の緑地帯は無く、単に幅の広い防火帯道路で、ここでもスキーを履いて行き来していました。昔は、電車が走っている街の中以外は馬そりと並んでスキーも人々の冬に交通手段だったものです。
こちらのひとりで写っている方では、奥に北5条通りが西に延びています。冬は雪でおおわれていますが、道はもちろん舗装などされていません。私の左後方に左側に向かって向かってカーブする轍がうっすらと見えますがこれは電車のレールです。この電車は北5条線といって札幌駅前方面から、北5条通りを往来し、この北5条西20丁目のカーブで南に進み大通20丁目にあった避病院(伝染病の隔離病院)の前で終点でした。そこで円山公園からの円山線に乗り換えると円山線は南1条から南1条線になって西4丁目交差点の三越前に向かうことができました。西4丁目交差点には駅前通りを札幌駅前とすすき野を経て中島公園を結ぶ停公線が通っていて札幌駅前で北5条線に繋がっていましたから、街の中心部にいくのは、むしろ今よりも便利だったと思います。けれども写真の私の背後には西の円山方面に向かって、大きな建物が見事になにもないですね。
父がスキーの職人ですから、私は物心つく前からスキーが友だちでした。1940年(昭和15)に札幌でオリンピックが開かれることが決まっていましたから、市民のあいだでもスキー熱が盛んだったと思います。父に連れられてよく荒井山に入り、いまの大倉山小学校のあたりから沢筋を滑っていました。あのあたりにオリンピックのボブスレーコースが作られていて、父は関係者とも懇意にしていましたから、ボブスレーに乗せてもらったことがあります。ご存知のように、1940年(昭和15)の札幌オリンピックは戦争のために中止となってしまったのですが。
小学校に入ってからは、学校が終わると家からそのままスキーを履いて、友だちと円山で滑りました。6年生のとき、荒井山で第1回全札幌小学校スキー大会があり、私は大回転で優勝しました。
この写真が撮られたころに太平洋戦争がはじまりました。家の近くに札幌二中(現在の札幌西高校)がありましたから、グランドなどを遊び場にしていました。時節柄だったと思います。グランドで行われていたグライダーの滑空訓練などはいまでも目に浮かびます。生徒たちが両側から引っ張ってグライダーを飛ばすのです。
友だちの兄さんが海軍兵学校に行っていて、休暇に、江田島(広島県)から白い制服で帰ってきたことがありました。あまりの格好良さに衝撃を受けました。儀礼刀にさわらせてもらって感動したことをおぼえています。当時の少年たちは、大人になったら何になる? と問われたら、「兵隊になる」というのが当たり前のこたえ。出征兵士を見送る情景も珍しいものではありませんでした。
戦争が激しくなってくると、工場の若い従業員も出征していきました。戦争でスキーどころじゃないと思われるかもしれませんが、このころ長野県の大手メーカー西沢スキーが陸軍から3万台のスキーの注文を受けたという話がありました。西沢と付き合いのあった芳賀スキーでもその一部を手伝うことになりました。父はしぶしぶ受けたようです。軍隊スキーは、軍靴ではけるように革の締具をつけたフィットフェルト方式で、ストックは和竹製。大きなリングがついていました。
1944年(昭和19)の春、洞爺湖の月浦に疎開することになりました。父がそこに別荘を持っていたのです。月浦国民学校に転校しました。ちょうどそのころ、湖越しに見えるところに昭和新山が誕生して、私は、噴煙を上げながら日に日に大きくなっていく山を不思議な気持ちで見ていたものです。戦争が終わったという玉音放送は、児童みんなで国民学校に集まって聞きました。あの時代は、今思うとやはり自由な雰囲気はなく重苦しい感じで、けして、良い時代ではありませんでした。もう二度とあんな時代にはなって欲しくはないですね。(つづく)
聞き書き/谷口雅春
札幌市電北5条線
1927年(昭和2)に北5条西4丁目~北5条東20丁目間で開通し、その後1931年(昭和6)に北5条西19丁目~大通西20丁目間が開通し円山線と直結。1971年(昭和46)まで運行。
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。