Vol.9 (最終回) 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く(最終回)
かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。
連続掲載の第9回目、いよいよ最終回となります。札幌の人たちへのスキーに対する芳賀さんの思いを語っていただきました。
スキーの楽しみと可能性 札幌の皆さんへ
ところで、今や、ニセコといえば、たくさんの海外からのスキー客にに溢れ、目を見張るばかりです。まるで外国にいるようでリフトに乗ってもオーストラリアやカナダからの若者と隣り合わせたりすることが当たりまえ、本当に驚きです。まさにかつて私が真狩でスキー工場を作る時に思い描いた「世界のスキーリゾート・ニセコ」がそこにあるわけで、隔世の感が否めません。
けれども、少し残念なことは、そこに日本人の姿が見えないこと。どうやらゲストのみならずスタッフも、そして、経営資本も海外からの人とマネーで少なからずが展開されているようです。日本の経済状況は中々楽観的にはならない中、せっかくニセコの雪と山が海外客のリゾートして活況を呈しているのに、その恩恵が日本人、特に北海道民に及ぶことが少ないことに寂しさも感じます。
一方、テレビをつけるとジャンプの高梨沙羅ちゃんを筆頭にウィンタースポーツでの、日本の若者の活躍は高まって来ています。けれども、またその一方で、スキー人口そのものは、年々減少傾向に。この先、沙羅ちゃんたちのがんばりに応えて行けるほどのウィンタースポーツに対する持続力が、北海道、特に大都市札幌の人々にどれほどあるのかも今ひとつ疑問です。
けれども、けして悲観的になることはありません。今、私が楽しんでいる山スキーも、スキーそのものが短く軽量化もされたことで扱いやすくなり、シールやビンディングも進歩し、以前よりもはるかに楽しみが増しています。これから始める人は山に分け入り滑り降りるバックカントリースキースタイルからでは無く、スキーで平地を歩くノルディックスタイルから始めれば、きっと楽しみに気づき、やがて、山へ登る魅力にも誘われて行くことでしょう。父や叔父たち芳賀兄弟が、そうであったようにノルディックスタイルこそスキーの基本なのです。
スキーと山に精通する人が増え人財となれば、道外・海外からの冬の観光客をもてなすガイドやヒュッテ・山頂ホテルといった雪や山を利用したビジネスの担い手にもなり、北海道経済に寄与貢献する可能性も多いにあります。それは夏であっても同じです。
他に比類無き、雪と山と食に恵まれた北海道は、観光立国スイスやオーストリアが、何を糧にしているのかを学ぶことも重要な事なのかも知れません。
そいった事を、これからは札幌の人たちとも、夢を持って語り合っていけたらとも思います。
宮の森の自宅には、2011(平成23)年の帰札にあたって、かつてハガスキーが製作したスキーの変遷をご覧いただく「小さな芳賀スキー展示場」を開設いたしました。折しもこの年は、オーストリア・ハンガリー帝国レルヒ少佐が、日本にスキーを伝えて100年目の年でした。かつて札幌の街にも海外に輸出する程のスキー産業があったことを知っていただく手立てになればと思います。
このサイトページにおつきあいいただき、関心をお持ちいただいた方にもお目にかかる事ができれば、また楽しいことと思いつつ本稿の最後とさせていただきます。
ありがとうございました。
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。