かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。連続掲載の第5回目です。
今回は、芳賀スキー誕生のお話しです。
芳賀スキーの成長とその後
芳賀スキーは1926(大正15)年には札幌に拠点を移しました。当初は札幌郡藻岩村字円山(現在の円山)に工場と事務所を構え、1933(昭和8)年には父が兄の恒太郎から独立して、桑園に店と工場を構えました。私が生まれ育った北5条西19丁目です。
先に述べたように、私は、1947(昭和22)年に開校した新制の中学、向陵中学校の一期生です。私の青春と仕事人生は、戦後の復興と高度成長、そしてドルショック、オイルショック、大型量販店などが起こした流通革命へという、日本経済の大きな流れとともにありました。
1949年、全日本スキー選手権大会が国民体育大会冬季大会を兼ねて札幌で開催されました。三笠宮殿下と高松宮殿下がご臨席されました。大会期間中、両殿下は北海道大学の大野精七先生のご案内で芳賀スキーの工場を訪問されました。父は、戦後第一号のヒッコリーの合板スキーを献上しました。輸入ヒッコリー材は、当時たいへん貴重になっていました。宮様は父に、「今まで以上にスキー界で活躍してほしい」とお言葉をくださいました。
宮様にも励まされ仕事に精進した父ですが、やがて体調を崩してしまい、東京の病院にまで行きました。しかし父は、そんな体であるにもかかわらずスキー販売の拠点を東京に置こうと考えていました。その準備のための上京でもあったのです。そして神田小川町に店舗を購入。さらに茅ヶ崎(神奈川県)にあった旧海軍のボート工場を購入する準備までしました。
父は北大病院で胃の半分の摘出手術を受け、やがて幸運にも全快することができました。私が東京の学習院大学を卒業するころに合わせて、父は茅ヶ崎の工場建設を進めました。1961(昭和36)年に工場は竣工。東京、中部、さらには関西への販売も強化していきます。工場ではバルカナイズファイバーという素材を使ったグラススキーを開発して、これは科学技術庁長官賞を受賞することができました。
さらにほどなくして、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、スイスなどへの輸出も伸びていき、一社ではさばききれないほどの注文を抱えることになりました。輸出については、父は1964年のインスブルックオリンピック(オーストリア・チロル州)を、商談をかねて視察していたのです。
父は他社の同志たちと、さらなる生産規模の拡大と高度な技術開発部門を立ち上げるために、札幌スキー協同組合の共同事業として、羊蹄山麓の真狩村に新工場を建てました。いまの道の駅真狩フラワーセンターのあたりに敷地5千坪、建物800坪ほどの工場を設け、年間10万台の生産目標を掲げます。これによって、残念ながら茅ヶ崎工場は閉鎖して手放しました。
父が考えたのはこういうことです。アルペンの本場オーストリアなどでは国をあげて、スキーを裾野の広い産業として、そして人々の心に灯る文化として育んでいる。彼の地ではまず風土に根ざしたスキー技術の開発や研究を担う国立のスキー学校があり、すぐれたスキーヤーや指導者たちを育てます。そしてそのまわりに、スキーをはじめとしたすぐれた用具のメーカーがあつまり、さらに一般のスキーヤーを対象にした観光産業などが成り立っていく。交通や飲食、ファッションなどの産業も、その土地ならではのスキーを軸にして活発な事業を展開していくでしょう。
父は、自らが育った羊蹄山麓の風土にしっかりと根ざした力強いスキー文化とスキー産業を、ヨーロッパのように大きな裾野から成長させていきたかったのです。
しかしスキーに一生を費やした父は、札幌オリンピック(1972年)を見ることなく1970年に72歳で逝きました。跡継ぎとして私は36歳で社長となります。
札幌オリンピックをはさんで日本の経済は、ドルショックによる円高とオイルショックによるインフレで大きな打撃をこうむります。円高による輸入材料の高騰とインフレによる賃金高騰で日本の輸出スキーは完全に競争力を失い、輸入スキーが急激に勢いを増していきました。もはや父の時代とはすべてがちがいます。
私は北海道工業試験場や北海道大学の協力・支援を受けて、アルミやチタン、ケブラー繊維などを駆使した高性能スキーを作り上げました。輸入スキーに優る弾性や剛性などをもったスキーでしたが、ヨーロッパの選手がオリンピックで勝ったスキーにあこがれる日本人のブランド志向をつかむことはできませんでした。
通年での売り上げを確保するためにOEM(他社ブランド製品の製造)でゴルフクラブも作りました。
また、札幌オリンピックののち、手軽な市民スポーツとして「歩くスキー」の普及がはじまり、私も仲間たちと啓蒙、PR活動に力を入れました。やがて大きな大会に北海道知事や札幌市長も参加するほどになり、歩くスキーはマーケットとしても一定の規模を持つようになります。
しかしこれもまた、市場が育っていくにつれて本格的な用具志向が高まり、老若男女が無理なくゆっくり冬の森や平原を楽しむことを目的とする歩くスキーは、ヨーロッパ製品が主導する、スピードを競うクロスカントリースキーへの流れに変わってしまいました。
組合員企業6社で立ち上げた真狩村の札幌スキー協同組合真狩工場は、5社が倒産してハガスキー1社の経営になってしまいました。従業員の配置転換や削減が不可欠となりましたが、他業種労組の支援も受けた労働組合との交渉は困難を極め、地方労働委員会の調停をあおぎました。
このころスポーツ用品の販売業界にも大きな変革が起きていました。大手全国チェーンの販売網が広がり、中小のスポーツ店をつぎつぎに倒産に追い込んでいたのです。売掛金の焦げ付きは膨大な額になりました。
1991年2月、ハガスキーは倒産を選びました。74年の歴史に幕を下ろしてしまったのですが、総括していえば輸入スキーとの競争に敗れ、労働組合交渉といった問題の発生で、早い決断を下すことができました。
私が生まれ育った場所である桑園にありつづけた社屋は、残念ながら1993(平成5)年に取り壊されました。
(つづく)聞き書き/谷口雅春
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。