かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。
連続掲載の第7回目は、芳賀さんの学生時代、山岳部に所属していた頃にヒマラヤに登られたお話しです。
学習院大学山岳部時代とヒマラヤ登山遠征
大学に入学して山岳部に所属したのは、当時、学習院大学にスキー部が無かったためでした。けれども、山岳部に端を発した山の男たちとの出会いは私に取ってかけがえのないものとなりました。
1954(昭和29)年12月30日、学習院大学山岳部は、北アルプス鹿島槍ヶ岳天狗尾根で仲間4人が消息を絶つ遭難事故に見舞われました。後発隊で難を逃れた我々は翌日から舟橋明憲先輩の指揮のもと捜索活動を開始しますが困難を極め、京都大学や同志社大学などからの救援もむなしく8ヶ月にわたる捜索が終了ました。我々は仲間を見つけられぬ悲しみの中、伝統ある山岳部そのものの存続も危ぶまれる事態に直面しました。けれども後輩たちの捜索に駆けつけてくれたOB加藤泰安先輩による鬼の指導のおかげで、我々は山への姿勢を改めて学び、全力を傾注したことで学習院大学山岳部は復活を果たしました。
私自身はこの時の加藤先輩とのご縁がきっかけとなり、先輩自身が副隊長となる京都大学山岳部ヒマラヤ山脈カラコルム・チョゴリザ登頂隊に推薦され23歳で参加することになりました。戦前の学習院高等科生時代に山岳部所属後、京都大学の学士山岳会をめざし進学し、幾度も大陸に遠征し、戦後は昭和28年の第1次マナスル登山隊参加した加藤先輩は、遭難事故で落ち込んでいる当時の我々に明るい希望の光を当てるために10人の隊員の内の一人を学習院大山岳部から選ぶ事を計画し、私を推薦してくれたのでした。
この遠征隊は、1958(昭和33)年5月8日に神戸港を出発し、8月4日に、隊員2名の18時間をかけた標高差1000mのアタックにより、大学登山隊としては世界初の7000m峰超えであるチョゴリザ峰7,665mの登頂に成功したのでした。その11日後、私自身もチョゴリザ登頂を果たした平井隊員ともにポーター1名を伴い、ムスタグタワー東面のビアンジェ氷河への偵察に入り、4日後に5400mのキャンプからアルパイン方式で7170mの無名峰への登頂を試みました。装備不足で登頂こそ断念したものの頂上直下50mの地点まで登り、雄大なる山また山の景色に深く感銘を受け、その岩峯の下にケルンを積み、私のヒマラヤ遠征隊参加へのきっかけとなった鹿島槍ヶ岳遭難の学友4名の写真を埋めて下山しました。
この遠征参加は私の人生に自信と勇気と希望をもたらした事は言うまでもありません。キャラバン中は京大教授でフランス文学や評論の研究者である博識高い桑原武夫隊長による文化講演会が毎日のようにあり。知識や教養が深まった事も間違いありません。桑原隊長は、現地での折衝に隊員各自がたとえ英語がどんなに下手であっても、恥を恐れず相手が理解するまで頑張って必ず意思を伝えるようにと厳命し、それが国際人としての生き方であると教えました。そのおかげで私は人前で英語を話す心臓だけは強くなりました。
実は、オールジャパンインベストリーサービス社への入社の際には、経営指導者であるアメリカ人のジャック・ブーン会長による英語での面接がありました。このときもチョゴリザ登山遠征での桑原隊長の教えを思い出し、英語で自分の考えを最後まで頑張って伝え、役員候補としての営業部長の職を得ることができたのでした。
2005(平成17)年9月、鹿島槍ヶ岳遭難50回忌の追悼記が現地山麓で行われました。遭難者4名へその後の山岳部の活動を報告し冥福を祈りました。さらに私が加藤泰安先輩にご指導頂く事になったのも、亡き4名のお陰であることにお礼を伝えました。
なんといっても加藤泰安先輩にはお世話になりました。加藤先輩が副隊長を務めた第1次マナスル登山隊の隊長で後の日本山岳会会長となる三田幸夫氏の娘・淳子との結婚をとりもってくれたのも加藤先輩なのですから、本当に感謝に堪えません。厳しくもユーモア溢れる人生観を生きた登山家、加藤泰安先輩は井上靖の山岳小説「あした来る人」のモデルでもある人でした。
(つづく)原稿まとめ平山淳也(mini大通レターズ)
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。