ミニ大通13丁目のCafeロウライフさんと14丁目の和食おばんざいのお店風香さんのコラボレーションイベントの開催です。
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4月23日土曜日は風香さんのお料理教室がCafeロウライフで開催です。
Cafeロウライフと14丁目の和食おばんざいのお店風香さんのコラボレーションイベントの開催です。
毎回、大好評の風香さんのお料理教室が、なんと今 回はCafeロウライフで開催です。
基本的なお出汁の引き方 から旬の食材を使ったお料理まで、風香さん店主竹澤さんが、皆さんの目の前で調理し、プロの技を楽しくわかりやすくご紹 介します。その後は、出来たてのお料理を皆さんで召し上がりながらお料理を話題に、楽しい春のひとときを過ごしましょう!
メニューは、おから・竹の子ご飯・牛肉と牛蒡のしぐれ煮です。
今年、ミニ大通の桜は、早いかな!春も楽しみですね!
お申し込みは、Cafeロウライフ電話011-206-7691へ!
 
足立美術館所蔵 横山大観展が始まりました。
2016.4.2(土)−5.15(日)
北海道立近大美術館では、明治、大正、昭和にわたって活躍し、日本美術史上に大きな足跡を残した近代日本画壇の巨匠・横山大観(1868~1958)の特別展がはじまりました。
どの絵も、ものすごく堂々としていて、実に雅で、深淵です。
そして、描くテーマに対する着眼点と表現の発想と構成が、大胆で、見ていて爽快な気分になります。
今回は、島根県出身の実業家で横山大観作品の収集家であった安達全康氏(1899~1990)が創立した足立美術館の所蔵品から名作50展が一挙公開されております。
近代日本画壇の巨匠・横山大観の特別展は、北海道立近大美術館B室で5月15日日曜日まで開催です。
震災チャリティー3ウィーク最終日は、
モンクールさんの特別なパンが登場です!
		
	北海道立三岸好太郎美術館1階のCafeきねずみさんで、
3月1日から開催されてこられた期間中の、
ドリンク一杯につき10円募金の「東日本大震災復興チャリティー3ウィーク」
最終日の3/20(日)は詩とパンのお店モンクールさんの特別チャリティパンが登場します。
モンクールさん焼き上げテーマは【春の訪れを告げる小鳥たちのパン】名前は、まだありません。
Cafeきねずみさんでは、3/20,21のご来店に限り、このチャリティパンの名前を大募集!
その中で、「これだ」と店長が思った案を
コメントされた方にコーヒーを一杯
ごちそうしちゃうそうです!

3種類の異なるクリームが入る予定!
どんな中身かは、当時ののお楽しみ〜( ̄▽ ̄)♪と店長の森さん談
モンクールさん、のさき家さんのお菓子パック、家カフェふるかわさんの珈琲豆、佐藤進さんのお花も販売されてます。
Vol.9 (最終回) 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く(最終回)
		
	かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。
連続掲載の第9回目、いよいよ最終回となります。札幌の人たちへのスキーに対する芳賀さんの思いを語っていただきました。
スキーの楽しみと可能性 札幌の皆さんへ
ところで、今や、ニセコといえば、たくさんの海外からのスキー客にに溢れ、目を見張るばかりです。まるで外国にいるようでリフトに乗ってもオーストラリアやカナダからの若者と隣り合わせたりすることが当たりまえ、本当に驚きです。まさにかつて私が真狩でスキー工場を作る時に思い描いた「世界のスキーリゾート・ニセコ」がそこにあるわけで、隔世の感が否めません。
けれども、少し残念なことは、そこに日本人の姿が見えないこと。どうやらゲストのみならずスタッフも、そして、経営資本も海外からの人とマネーで少なからずが展開されているようです。日本の経済状況は中々楽観的にはならない中、せっかくニセコの雪と山が海外客のリゾートして活況を呈しているのに、その恩恵が日本人、特に北海道民に及ぶことが少ないことに寂しさも感じます。
一方、テレビをつけるとジャンプの高梨沙羅ちゃんを筆頭にウィンタースポーツでの、日本の若者の活躍は高まって来ています。けれども、またその一方で、スキー人口そのものは、年々減少傾向に。この先、沙羅ちゃんたちのがんばりに応えて行けるほどのウィンタースポーツに対する持続力が、北海道、特に大都市札幌の人々にどれほどあるのかも今ひとつ疑問です。
けれども、けして悲観的になることはありません。今、私が楽しんでいる山スキーも、スキーそのものが短く軽量化もされたことで扱いやすくなり、シールやビンディングも進歩し、以前よりもはるかに楽しみが増しています。これから始める人は山に分け入り滑り降りるバックカントリースキースタイルからでは無く、スキーで平地を歩くノルディックスタイルから始めれば、きっと楽しみに気づき、やがて、山へ登る魅力にも誘われて行くことでしょう。父や叔父たち芳賀兄弟が、そうであったようにノルディックスタイルこそスキーの基本なのです。

スキーと山に精通する人が増え人財となれば、道外・海外からの冬の観光客をもてなすガイドやヒュッテ・山頂ホテルといった雪や山を利用したビジネスの担い手にもなり、北海道経済に寄与貢献する可能性も多いにあります。それは夏であっても同じです。
他に比類無き、雪と山と食に恵まれた北海道は、観光立国スイスやオーストリアが、何を糧にしているのかを学ぶことも重要な事なのかも知れません。
そいった事を、これからは札幌の人たちとも、夢を持って語り合っていけたらとも思います。
宮の森の自宅には、2011(平成23)年の帰札にあたって、かつてハガスキーが製作したスキーの変遷をご覧いただく「小さな芳賀スキー展示場」を開設いたしました。折しもこの年は、オーストリア・ハンガリー帝国レルヒ少佐が、日本にスキーを伝えて100年目の年でした。かつて札幌の街にも海外に輸出する程のスキー産業があったことを知っていただく手立てになればと思います。

このサイトページにおつきあいいただき、関心をお持ちいただいた方にもお目にかかる事ができれば、また楽しいことと思いつつ本稿の最後とさせていただきます。
ありがとうございました。
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。
今日3/18のイチオシ!
噴火湾からの活牡丹海老です!
		
	話題の『寝かせ玄米おにぎり』 
本日3/18数量限定で、
ご用意してますよ〜♪
		
	Vol.8 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
		
	かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。
連続掲載の第8回目は、千葉・東京でのお仕事を終えられ札幌に戻られて、大好きな雪山スキーを再開された芳賀さんのお話です。
今回は、最終回のVol.9と同時に公開させていただきます。
再び、札幌に戻り深雪スキーを楽しむ
2011(平成23)年秋、77才で全ての職を終え、私と妻は20年間、留守にしていた札幌市中央区宮の森の自宅に戻りました。
千葉県幕張ベイタウンの便利なところから、札幌市の中央区とはいえ山の中腹にある家に戻ろうとする私に、友人たちは「何故、いまさらそんな不便な所へ?」と。これは、東京の人からも札幌の人からも言われました。
確かに、ここは地下鉄の最寄り駅からも遠く、街に出るには不便な所、でも周りに豊かな自然に恵まれ、庭のバードテーブルにはきれいな野鳥や可愛らしいエゾリスたちもやって来る場所。この自然の眺めの中での寛ぎは、かけがえのないものです。
そして、山スキーの再開。実は、これが私の札幌に戻る大きな目的のひとつでした。季節は冬となり、喜び勇んで古い山仲間とともに雪山へ!しかし、実際に行ってみると、あいにく私の長く愛用したスキー道具は古く劣化していたため、全て新型への切り換えが必要であることが判明。さらにこの新型に向けてのスキー技術の修得も余儀なくされることに。私のスキー技術は半世紀以上古いクラシックスキーテクニックで、新型スキーは私のスキー技術を理解してはくれないのでした。札幌に戻って深雪スキーを楽しむにはもはや遅すぎたか!とも思われましたが、私の年齢にふさわしいハニカムコア軽量のフランス製スキーを手に入れたことと、仲間の指導のおかげで操作にも慣れ、今はニセコや大雪での山スキーを楽しんでおります。もちろん年齢をわきまえ仲間に迷惑をかけないことに努めて、これからも深雪を楽しんで行きたいと思います。

(最終回 Vol.9につづく)(最終回 Vol.9につづく)
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。
おいしいカステラ焼けましたよ。
Vol.7 私の山とスキーと人と
芳賀孝郎さんに聞く
		
	かつて北5条西19丁目にあった『ハガスキー』を経営されておられた芳賀孝郎さんのお話し。
連続掲載の第7回目は、芳賀さんの学生時代、山岳部に所属していた頃にヒマラヤに登られたお話しです。
学習院大学山岳部時代とヒマラヤ登山遠征
大学に入学して山岳部に所属したのは、当時、学習院大学にスキー部が無かったためでした。けれども、山岳部に端を発した山の男たちとの出会いは私に取ってかけがえのないものとなりました。
 

1954(昭和29)年12月30日、学習院大学山岳部は、北アルプス鹿島槍ヶ岳天狗尾根で仲間4人が消息を絶つ遭難事故に見舞われました。後発隊で難を逃れた我々は翌日から舟橋明憲先輩の指揮のもと捜索活動を開始しますが困難を極め、京都大学や同志社大学などからの救援もむなしく8ヶ月にわたる捜索が終了ました。我々は仲間を見つけられぬ悲しみの中、伝統ある山岳部そのものの存続も危ぶまれる事態に直面しました。けれども後輩たちの捜索に駆けつけてくれたOB加藤泰安先輩による鬼の指導のおかげで、我々は山への姿勢を改めて学び、全力を傾注したことで学習院大学山岳部は復活を果たしました。
私自身はこの時の加藤先輩とのご縁がきっかけとなり、先輩自身が副隊長となる京都大学山岳部ヒマラヤ山脈カラコルム・チョゴリザ登頂隊に推薦され23歳で参加することになりました。戦前の学習院高等科生時代に山岳部所属後、京都大学の学士山岳会をめざし進学し、幾度も大陸に遠征し、戦後は昭和28年の第1次マナスル登山隊参加した加藤先輩は、遭難事故で落ち込んでいる当時の我々に明るい希望の光を当てるために10人の隊員の内の一人を学習院大山岳部から選ぶ事を計画し、私を推薦してくれたのでした。
この遠征隊は、1958(昭和33)年5月8日に神戸港を出発し、8月4日に、隊員2名の18時間をかけた標高差1000mのアタックにより、大学登山隊としては世界初の7000m峰超えであるチョゴリザ峰7,665mの登頂に成功したのでした。その11日後、私自身もチョゴリザ登頂を果たした平井隊員ともにポーター1名を伴い、ムスタグタワー東面のビアンジェ氷河への偵察に入り、4日後に5400mのキャンプからアルパイン方式で7170mの無名峰への登頂を試みました。装備不足で登頂こそ断念したものの頂上直下50mの地点まで登り、雄大なる山また山の景色に深く感銘を受け、その岩峯の下にケルンを積み、私のヒマラヤ遠征隊参加へのきっかけとなった鹿島槍ヶ岳遭難の学友4名の写真を埋めて下山しました。
 

 
この遠征参加は私の人生に自信と勇気と希望をもたらした事は言うまでもありません。キャラバン中は京大教授でフランス文学や評論の研究者である博識高い桑原武夫隊長による文化講演会が毎日のようにあり。知識や教養が深まった事も間違いありません。桑原隊長は、現地での折衝に隊員各自がたとえ英語がどんなに下手であっても、恥を恐れず相手が理解するまで頑張って必ず意思を伝えるようにと厳命し、それが国際人としての生き方であると教えました。そのおかげで私は人前で英語を話す心臓だけは強くなりました。
実は、オールジャパンインベストリーサービス社への入社の際には、経営指導者であるアメリカ人のジャック・ブーン会長による英語での面接がありました。このときもチョゴリザ登山遠征での桑原隊長の教えを思い出し、英語で自分の考えを最後まで頑張って伝え、役員候補としての営業部長の職を得ることができたのでした。
2005(平成17)年9月、鹿島槍ヶ岳遭難50回忌の追悼記が現地山麓で行われました。遭難者4名へその後の山岳部の活動を報告し冥福を祈りました。さらに私が加藤泰安先輩にご指導頂く事になったのも、亡き4名のお陰であることにお礼を伝えました。
なんといっても加藤泰安先輩にはお世話になりました。加藤先輩が副隊長を務めた第1次マナスル登山隊の隊長で後の日本山岳会会長となる三田幸夫氏の娘・淳子との結婚をとりもってくれたのも加藤先輩なのですから、本当に感謝に堪えません。厳しくもユーモア溢れる人生観を生きた登山家、加藤泰安先輩は井上靖の山岳小説「あした来る人」のモデルでもある人でした。
(つづく)原稿まとめ平山淳也(mini大通レターズ)
芳賀孝郎 さん
1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。





	


	

	


